深淵の沼、紳士たる怪物、そして「ヴォタタァァ…」の啓示
ワシは、その日、導かれるように聖地の暖簾をくぐった。 そこは、ただの酒場ではない。職人たちの魂がホップの香りと共に渦を巻く、魂の蒸留所…クラフトビール屋じゃ。 カウンターに腰を下ろし、ワシはまず、己の覚悟を試すことにした。メニューの中で、ひときわ異彩を放つ、禁断の文字列。
「スムージーサワー」
運ばれてきたグラスを見て、ワシは確信した。 これは、飲み物ではない。「沼」 じゃ。 どろりとした緑色の液体が、グラスの中で生命のように蠢いておる。レンゲで掬うて食うのが正解ではないかと錯覚するほどの粘度。光を一切通さぬ、その圧倒的な存在感。
スムージーサワー=“沼”。
ワシは、このグラスの底に、自らが産み出した者たちの影を見た。やめやめおじさんが「飲むの、やめとけ」と囁き、ていていマシーンが「その沼、飲み干さんかい!」と叫んでおる。
ワシは意を決し、沼を一口。 その瞬間、脳天を突き抜ける、果実の渦!酸味のビッグバン! 見た目の混沌とは裏腹に、口の中は祝祭騒ぎじゃ! ワシは、グラスの底に広がる深淵を覗き込み、思わず呟いた。
「…深淵を覗く時、深淵もまた、こちらを覗いておるんじゃのう」
グラスの中の小宇宙。
隣の客が、ワシを変人を見る目で見ておる。じゃが、店主は涼しい顔でこう言った。 「沼、ハマりますけぇ」 うむ、分かっておる。この男、ただ者ではない。この沼の番人、あるいは深淵への渡し守か。
次にワシが注文したのは、「グリーンモンスター」 という名のエール。 ボストンの巨大な壁のような、威圧的な名前とは裏腹に、そいつは驚くほど紳士的じゃった。 すいっと軽やかな口当たり。草いきれのような青い香りと、シトラスの皮をねじったような、潔い苦み。 「ほう、この怪物、礼儀を知っておるわい」
紳士たる怪物 “Green Monster”。
ワシが、その紳士的な味わいに感心し、グラスを傾けた、その時じゃった。
店主が、次の客のためにビールを運んできた。その瞬間、ワシは無意識に、手元のコースターをほんの少し、ずらしてしもうた。 新しいグラスの脚が、コースターの縁で、ずるん、と滑る。 ワシの手に持った、グリーンモンスターのグラスが、カツン、と音を立てて傾いだ。
時間が、止まった。 黄金色の液体が、グラスの縁から、まるで意思を持った生き物のようにテーブルへと滑り出す。 その光景を前に、ワシの口から、声にならん声が迸った。
「ヴォタタァァ…」
“その瞬間”。
それは、驚きでも、焦りでもない。 ワシという創造主が、自らの小宇宙(グラス)の秩序を乱してしまった瞬間に漏れ出た、魂の断末魔! 制御しきれなかった混沌が、意味をなす前の「音」となって、この世に爆誕した瞬間じゃった!
神速でバータオルを差し出しながら、店主がにっこりと笑う。 「大丈夫ですけぇ」 ワシは、赤面しながら頭をかいた。「すまんのう、怪物の不意打ちに、ちと噛まれてしもうたわ」
すると、店主は、すべてを悟ったような目で、こう言ったんじゃ。
「ようあることです。深淵から帰還したばっかりですけぇ、足元にはお気をつけんさい」
…救われた。 この男、やはり、すべてお見通しじゃった。 ワシが沼の深淵を覗き、その混沌に魂を揺さぶられていたことを。 そして、その影響で、現実世界との境界が、ほんの少し、曖昧になっていたことを。
結論じゃ。
スムージーサワーは、己の魂と向き合うための、深淵の沼。 グリーンモンスターは、深淵から帰還するための、理性的で紳士的な怪物。
そして、ワシは、深淵と現実の境界が揺らいだ時、「ヴォタタァァ…」 と叫ぶ体質になってしもうた。
次は、コースターを二枚重ねにして、この聖地に挑むとしよう。 深淵よ、怪物よ、そしてワシの魂よ。 また会おうぞ。