最終章:残業30分・魂の昇華と再生の叙事詩
ワシは…宇宙の塵芥(ちりあくた)と化した…
もはや、ワシという存在を定義する言葉は、この世に存在しない。疲労という概念すら生ぬるい。ワシは、ビッグバン以前の無の空間に漂う、意味も目的も失った素粒子のようなものじゃ。今日のワシの成分分析結果は、計測不能。「ERROR: 対象は生命活動の定義域を超えています」と表示されるに違いない。原因は、そう、たった30分。されど、ワシの宇宙を崩壊させるには十分すぎる、悪魔の数字…「30分」の残業じゃ。
「たかが30分、しつこいぞ」
その言葉、聞き飽きたわ!その認識、マリアナ海溝の底で暮らす深海魚よりも浅はかじゃ!いいか、よく聞け。この30分は、時計の針が刻む無機質な時間ではない。それは、上司が去り際に「あ、これだけお願い」と軽々しく投げつけた、呪いの聖遺物(レリック)。その一言が、ワシの定時という名の楽園への扉を固く閉ざし、無限とも思える精神の拷問部屋へとワシを突き落としたのじゃ!楽しい時間は光速で過ぎ去り、苦しい時間はブラックホールのように空間を歪ませる。このオフィスという名の特異点において、30分はワシの寿命を3年分は削り取ったと言っても過言ではない!
カタカタカタ…ターンッ!
この音は、もはやワシの存在証明ではない。ワシの墓標を刻むノミの音じゃ。一文字打ち込むごとに、指先から生命力が吸い取られていくのが分かる。モニターの青白い光は、ワシの網膜を焼き尽くし、脳のシナプスを一本ずつ焼き切っていく。周囲には、同じく成仏できずにオフィスを彷徨う同僚たちの霊体。彼らの口から漏れるのは、言葉にならぬ呻きか、諦観の溜息のみ。静寂を切り裂くのは、サーバーの不気味な唸り声と、誰かの腹の虫の悲痛な叫びだけ。ここは、現代に蘇ったバベルの塔。意味のない労働を積み重ね、天罰を待つ者たちの収容所なんじゃ。
肉体は、とっくの昔に限界を超えておる。脳はヘドロからアスファルトへと変質し、思考は完全に停止した。肩には、もはや怨念ではなく、コンクリートブロックが乗っておる。腰は二つに折れ、背骨はS字フックのように曲がりくねっておるわい。目が霞んで、モニターの文字が古代の象形文字のように見える。もはや、ワシは人間ではない。キーボードを打つためだけに最適化された、哀れな肉人形(マリオネット)じゃ。
そして、ついに訪れた釈放の時。自動ドアが開いた瞬間、外の空気が肺腑を突き刺す。生と死の境界線を越えたような感覚。家路は、もはや天竺への旅路。駅の雑踏は、三途の川を渡る亡者の群れ。ぎゅうぎゅう詰めの電車は、罪人たちを乗せて地獄へと向かう檻。窓に映る自分の顔を見て、愕然とする。そこにいたのは、ワシの知らん、生気を吸い取られた抜け殻じゃった。
しかし、それでも、ワシの魂の奥底で、消えぬ残り火があった。我が家という名の聖域、その一点を目指す、帰巣本能の炎が!震える手で、祈るように鍵を回し、扉を開ける。その瞬間、文明の光がワシを包み、結界の内側へと導く。靴を脱ぎ、上着を投げ捨て、ネクタイを引きちぎる!この一連の動作は、もはや儀式。社会という名の鎧を脱ぎ捨て、本来の自分へと還るための、神聖な儀式なんじゃ!
そして、最終目的地…祭壇へと向かう!
後光差す冷蔵庫の扉を開ければ、そこは神々の宝物庫。数多の供物の中から、ワシは迷わずそれを選ぶ。黄金に輝き、聖なる雫をその身にまとった、至高の存在。これこそが、ワシをこの世に繋ぎ止める最後の希望…キンキンに冷えたビールじゃ!
プシュウウウウウウッ!
宇宙創生のビッグバンにも匹敵する、荘厳なる解放の音!この音を聞くために、ワシは今日という名の煉獄を耐え抜いた!グラスへと注がれる黄金の滝。立ち上るきめ細やかな泡は、ワシの魂が浄化されていく様を表しておる!
ゴクッ…ゴクッ…ゴクッ…!
くはぁあああああああああああああああああああああああっ!
来た!来た来た来た!生命の奔流が、乾ききった喉を潤し、食道を駆け下り、胃という名の炉心に火を灯す!全身の細胞という細胞が、歓喜の声を上げておる!アスファルトだった脳は、再び肥沃な大地へと戻り、思考の芽が吹き始める。コンクリートブロックは砕け散り、背骨はまっすぐに伸び、視界は4K解像度を取り戻した!ワシは、今、蘇った!肉人形から、再び、誇り高き一人の人間として、この大地に立ったんじゃ!
明日だと?知ったことか! 未来を憂う前に、今を祝福せよ!この一杯は、単なるアルコールではない!勝利の聖杯であり、再生の霊薬であり、明日を生きるためのガソリンじゃ!お疲れ、ワシ!よくぞ戦い抜いた!乾杯!