森の奥から、ブェェ…
ワシが住む村の裏手には、古くから「鳴かずの森」と呼ばれる場所がある。鳥の声も、獣の気配も、風の音すらも吸い込んでしまうような、静寂に支配された森じゃ。
しかし、ある満月の夜のこと。 その静寂を破るように、森の奥から奇妙な音が聞こえてきたんじゃ。
「ブェェ…」
それは赤子の夜泣きのようでもあり、古井戸の底から響く呻きのようでもあった。 一度聞こえ始めると、それはもう止まらない。 「ブェェ…ブェェ…」と、まるで森全体がしゃくり上げているかのようじゃった。
村の者たちは気味悪がって誰も近づこうとせんかったが、好奇心には勝てんのがワシの性分よ。 ランタン片手に、音のする方へと足を踏み入れた。
森の奥深く、月光が差し込む開けた場所に、その声の主はいた。 体長は子犬ほど。全身が湿った苔のような、それでいてフワフワの毛で覆われ、大きな黒い瞳は常に涙で潤んでおる。 ワシが近づくと、その生き物はワシを見つめ、ひときわ大きくこう鳴いた。
「ブェェェェェッ…!!」
その瞬間、ワシの心に得体の知れない悲しみが流れ込んできた。 なぜか急に、子供の頃に飼っていたカブトムシの「カブ千代」が死んだ日のことを思い出し、涙がポロポロと溢れて止まらなくなったんじゃ。 見れば、周りの木々も枝をしならせて露を滴らせ、岩までもが涙のように苔を濡らしておる。 こいつの鳴き声は、周囲のあらゆるものの悲しみを増幅させる力があるんじゃ!
ワシはこいつを「ブェェ泣き虫」と名付けた。
次の日、ブェェ泣き虫は、なんと村に下りてきてしまった。 村は大パニックじゃ。 屈強な鍛冶屋の親父は「鉄がうまく打てん…」と泣き崩れ、食堂のおばちゃんは「今日のスープはしょっぱすぎる…」と自らの涙で味付けしたスープを嘆き、ついには村長までが「ワシの威厳が…ブェェ…」と演説台で号泣する始末。 村中が涙の海に沈もうとしておった。
その時、一人の子供が、泣きじゃくるブェェ泣き虫の前に、そっと甘い木の実を差し出した。 ブェェ泣き虫は、涙で濡れた瞳で木の実を見つめ、それをパクリと食べた。
するとどうじゃろう。 ブェェ泣き虫は、満面の笑み(に見えた)で、こう鳴いたんじゃ。
「ブェェ…ッ!(嬉)」
その声は、先ほどまでの悲しみの波動とは全く違った。 それを聞いた村人たちは、今度は急におかしくなって、腹を抱えて笑い出したんじゃ! 鍛冶屋の親父は「人生最高の一振りじゃ!」と笑いながら槌を振り、おばちゃんは「涙味のスープ、新発売じゃ!」と高笑い。村長は「威厳などいらんかったわい!」と腹をよじらせておる。
ブェェ泣き虫は、悲しい時にだけ鳴くのではなかった。 嬉しい時も、楽しい時も、感情が高ぶると「ブェェ…」と鳴く。そしてその感情を周りに伝染させる、とんでもない生き物じゃったんじゃ。
今では、ブェェ泣き虫は村の人気者。 村が沈んだ気分の時は、誰かが甘い木の実を持って森へ行く。 すると、森の奥から陽気な「ブェェ…」が聞こえてきて、村はたちまち笑い声に包まれるんじゃ。
めでたし、めでたし…いや、たまに悲しみの「ブェェ…」も聞こえてくるから、油断はならんのう!